2012/12/20
[1]
僕は自分で髪を切っているのだが、最近は風呂が早いため髪を切っていない。
フロント部分(俗にいう前髪)は朝、飛び出し次第切っているのでありますが、
サイドやバックなんかは結構盛っている。
明日切ります、という事です。
[2]
昨日一日、タバコを断ったらいい夢を見て朝まで快眠、
そのうえ目覚ましがなる前に起きられるという事件が発生。
警察は原因の究明を急いでいます。
[3]
最近、授業でノートを真面目に取っている。
もとい、以前から取ってはいたのだが、ルーズリーフに書いていた。
ルーズリーフというのは言ってしまえば単なる紙切れだ。形式としては綴じない限り、チラシの裏にメモしているのと同じ行為である。
よって、書いたら終わり、ピロートークも無しで寝ちゃうような男みたいな存在なのだ。
簡単に言うと、なくす。バラバラになる。どっか行く。欠落する。
ファイリングすればいい話なのだがルーズリーフのファイルはでかい。バカでかいファイルをいちいち持ち歩くのもバカらしい。
ルーズリーフの利点は後々ページの追加や入れ替えが容易であることだが、それもファイリングしたうえでの話だ。僕のようにバラけた紙の状態で持ち歩いていたら意味がない。
そこでノートだ。
ノートは便利だ。高校を卒業してしばらくノートから離れていたのでノートの便利さを再び思い知ることになった。
まず軽い。既に綴じてある。ゆえにバラバラになる心配がない。ルーズリーフは一枚に収めなきゃという思いが強まって授業の進度によっては下部に文字が圧縮される場合もあるが、
ノートは好き放題使える。
大学は高校までと違ってノート点検が無いため、教科ごとにノートを分ける必要がない。教科や教師によってはプリントやワークを中心に展開するため板書をまったくしないためノートの冒頭数ページだけ書いてあとはまっさら、なんてことがよくあった。
表紙にでかでかと油性マジックで教科名を記してしまったので他の教科に使いまわす際はそれを塗り潰すなりして消したうえで使用しなければならない。めちゃくちゃダサい。
今はそういう制約がないので楽だ。というか、なぜノート点検というイベントがあったのか謎だ。ノートをきちんと取っているかを見るだけだろう。ノートなんて好きに書かせればいいのに。配布したプリントを貼らされて分厚くなってるノートも大嫌いだった。スマートであるからこそのノートだ。汚らしい藁半紙を貼らされる作業は嫌いだった。
一冊のノートを常に持ち歩き、教科もごちゃごちゃで順番にページを埋めていけばいいのだ。教科数だけノートを買う必要もなくなる。なんとも経済的だ。
すべての教科を一冊のノートに収めていればあとで見返したときに違う教科の復習にもなる。
ということで最近はノートを使っているわけだが、授業で教師が板書したこと以外を自分のことばで、きれいにまとめるとめちゃくちゃ気持ちがいい。
知的に見えてくる。
電車やバスで、おもむろにノートを取り出して読み返したりする。復習しようというわけではなくて「綺麗にかけたノート、もう一回眺めてみよう」とか「俺の字の綺麗さを再確認してみよう」という理由で。
隣の乗客に「こいつ頭良さそうだな」と思われればなお良しである。
こういうことには中1の段階で気付くべきだったのだが、5,6年ほど遅かった。中学高校時代はノートに落書きばっかりしている糞坊主だった。字も乱雑だし、鬼のように糞だった。なので全部捨てた。きれいに書いていたら宇治原のように今でも取ってあるはずだ。
いま、実は拾ったノートを使っているのだが、このノートを拾っていなかったらこんなことしていない。デスノートの逆か。
拾ったときには誰だか知らないけど同学年が書いたとは思えないほど汚くて、死にかけなんじゃねえかと思うくらい薄い筆圧の文字が書いてあった。
こんな奴と同じ大学に絶賛通学中だと思うと吐き気がする。ベジータ風に言うとヘドが出るぜ。
英語がわからない以前にやることがあるだろ、お前は。大学ノートじゃなくてプリキュアの自由帳にでも書いてろ。
隣のページにはこんな芸術作品が描かれていた。
間違えて幼稚園に来たのかと思った。
マジでこいつ生活ままなってるのか。人生楽しいか。こいつ。
これらのページはすぐさま破り捨ててやった。表紙には何も書いていなかったのでそのままなんでもノートとして使い始めた。持ち主はたぶんアホなので俺が自分のなくしたノートを絶賛使用中だとは近くで見ても気が付かないだろう。
綺麗に使ってもらえてノートも嬉しいそうだ。
[4]
僕が映画を見て、それを素晴らしいと思うかどうかの決定打は、泣いたかどうかだ。
感情を揺さぶられて涙を流したらそれは僕の中で名作に認定される。
ヒューマンドラマの場合はこの基準でいいが、それ以外のジャンルの場合は名作か否かの定義が曖昧になる。(名作ではないといっても糞映画というわけではなく、すごいけどすごい止まりという意味。)
たとえばファイト・クラブは個人的に名作だと思っているが、ファイト・クラブを見て涙を流していない。桐島、部活やめるってよもダークナイトも同じだ。
これらの映画に名作スタンプを押したのはなぜか。
深く感銘を受けたかどうか、深くもう一度見たいと思ったか、だ。
映画を見て泣いたとき、人間には「カタルシス」が生じる。スッキリしてもう一度見たいと思うことだ。
僕は本を読んで涙を流したことは一度しかないが映画なら何本もある。意外と泣く。
映画(映像メディア)は視覚と聴覚の両方に対して優れた訴求力を持っているため、突き詰めれば文字の羅列である本よりも感情が揺さぶられやすい。
逆に言えばそれだけ感情を動かしにくい本を読んで泣いたら、その本は相当な名作といえるわけだ。
そろそろ何を書いているのかがわからなくなってきたが、先程「シェイム」を見てそんなことを思った。(泣かなかったけどこれはすごい映画だ。と思ったということ)
僕の場合、見た直後は微妙な印象だけど後々解説や他人の評価を見ることでそれが名作へと昇華する特性がある(シャイニングや終の信託など)。
シェイムも今はすごい映画止まりだが、そのうち名作になる可能性が大いにある。
ただひとつ胸を張って言えることは、
キャリー・マリガン好き。
(外部リンク:http://togetter.com/li/384272「同志社大2年、平隆久容疑者の凄まじい性欲」
こいつは日本版シェイムどころか単なるセックス依存症のカスだ。ブランドンが未成年を犯していたらこうなっていた。)